ねじの由来
 

わが国におけるねじの起源と火縄銃のねじ

我が国におけるねじの起源 日本人初めてねじを見る。
 我が国に初めてねじが伝えられたのは、16世紀半ばであると考えて間違いなさそうです。
 1543(天文12)、ポルトガル船が種ケ島の西之浦にある西村という海岸に着きました。この時、島主である種ケ島時堯が2千金を投じて火縄銃2挺を買い入れ、鉄匠(刀鍛冶)の八板金兵衛清定にその製造法を研究させました。金兵衛が苦心の末、ねじによって銃尾を塞ぐことに成功した話はあまりにも有名です。
 このことから、当時わが国では、ねじに関する知識がなかったと考えられています。
 一方中国では、「1609年」に鳥銃後門形の火縄銃に使われている尾栓雄ねじ(左ねじ?)が図示されているのが最初の文献とされています。この図には、絲轉形、左転則入、右転則出と説明が付されています。したがって、鉄砲伝来以前に、中国からねじについての知識が伝えられていたわけではなさそうです。
 ただし、機械時計が鉄砲とほぼ同時期にわが国にもたらされていますので、その機械時計にねじが使用されていた可能性はあります。
 長崎でも16世紀末より時計が制作されたようです。
 この頃より細工師からスタートして新しい職種となった時計師と、刀鍛冶からスタートした鉄砲鍛冶によって、ねじが作られるようになり、互いに技術的な影響を受け合ったと考えられます
 こうして、100度〜120度とピッチが極めて大きく、ねじ山の高さが低い火縄銃ねじの形状ができました。この方が雌ねじの場合加工が楽で、強度的にも望ましかったからです。

火縄銃の製作法
 雄ねじの製作法については、ねじを切るべき丸棒に糸を巻きつけたり、ねじ直線を記入した矩形の紙を巻き付けたりして、これらの線に沿ってやすりでねじ溝を切っていたことが分かっています。
 また、雌ねじの(底栓)製作法が一番重要であり、火縄銃の銃尾は張り塞ぎとされています。